それがあなたの生きる道ならば。『R100』

北野武が「おいら、映画の事なんて判んねぇからよ」と言っていても素養として映画(やその他芸術)に触れて来たのは明らかであることと比べると、松本人志の場合は映画に関するリファレンスは圧倒的に少ない。
それを露悪的に自ら喧伝しているところもあったりして、そのたあたりは、もう少し素直に向きあった方がいいのかなと思う反面。
それこそが彼の彼たる証であるというなら仕方がない事とも思う。

という事で
R100

しかしそういったリファレンスの少なさをもって彼の作品を断罪するつもりはないし、そのことが表現活動の強みになることもあるだろう。
もちろん弱点にもなりうる。
今までのところ弱点の部分ばかりが強調されて批判されているような気がするし、中にはアンフェアな批判もあるように思う。
もちろん批判が出る事も納得できる。

その一方で、やはり他とは違う顔つきも持った作品であることも否定はできず、特に終盤の”CEO”の登場は快感をもたらすだけの力のある画面だった。少なくともその部分だけでも観る価値があったと言うことに躊躇はない。

ネタバレ、とうほどでもないし序盤で明かされる事だが、この作品は100歳の映画監督が撮った「R100」という劇中映画と、それを巡る関係者たちの様子という二重構造になっている。浅いといえば浅い。
試写を観た関係者たちが作品の出来にうなだれる、という自己言及のパートは、「逃げ」に見えるのは間違いないが、実はそこまでの意図はないと思うのだが甘いだろうか。
単なるボケに対するツッコミとして配置しているに過ぎないのではないか。そのボケがつまらんのじゃ!と言われればそれまでですけど。

勝手な想像になるが企画会議の席でのやりとりはこんな感じだったんじゃないか。

「ジジイが無理して作ってもうとるから、色々おかしなことになんねん」「発想が昭和なんやね。公衆電話。ハリマオみたいな格好したヒーロー」「頑張っとんねん。でも限界や。100歳やから」「100歳やからな」「ちょっと社会的なものも取り入れてしまう。現代日本の空気を切り取ったでー、みたいな」「欲が出て。褒められたい」「褒められたいねん。100歳やのに」

こんな感じで企画が進んでいったんではないか。
だから中盤から大森南朋渡部篤郎の演技が明らかに投げやりになっているのは、以下のような意図に基づいた演出プランであると思いたい。

「もう役者も途中から気づいとるんやな。感じとる。これ変やぞ、と」「変やぞ、この映画失敗や」「投げやり。巨匠の映画に出られると思って張り切っとったのにオモチャみたいな鉄砲持たされて」「顔にはエフェクトかけられるし」「失礼なジジイやで」「これ打ち上げ大変なことになるで」

そういう想像をしながら見るようにしていたので十分笑えた。そこまで慮って笑わなきゃならないのかは良くわからないけど。
いやでも元々そういう指向を持った笑いをやってきた人なので、その意味ではブレていない。

ただ寿司屋のシーンだけは意図を聞いてみたい。なぜビジュアルバムの劣化版のようなシーンを入れたのか。その点はどうにもしっくりとこない。

ということで色々と散々な言われようの今作だけど、そこまでヒドイとは思わないし、いやむしろ楽しめた方の部類。

次回作あたりホラー映画を撮ってみて欲しいのだけど、もう映画やめちゃうのかな。
それはとても残念な事だと思う。本当に。