そうでなかった人生の清算方法。その2『あなたを抱きしめる日まで』

全ての映画はロードムービーである、といういかにもありそうなフレーズ。

という事で
あなたを抱きしめる日まで

このタイトルだけで観る気が失せる、という人も多いと思う。実際自分もそうだったけれど、結論から言うと、これは観て正解でした。
イギリスらしい程よい毒とユーモアのある良い作品。

ジュディ・デンチは当たり前のように素晴らしい。緊張の糸がピンと張った場面、あるいは少しユーモラスな場面。庶民的な暖かみと同時に気品ある佇まい。愛らしく、そして威厳のあるオーラ。流石という他ない。ヤング・フィロミナの人も、なかなか魅力的。

生き別れの息子を捜すフィロミナとその手助けをすることになるマーティンが始める旅は、もちろんロードムービーであると同時に、ミステリにもなっている。フィロミナとマーティンが出会うまでの展開はテンポが良くてスーっと引き込まれた。原作も未読であらすじもロクに読んでなかったので、「ははーん。これはアレがこうなって、こういう事になるんだな。ちょっと安易だけど嫌いじゃないよ」なんて予想しながら観ていたら、それは当然のように外れていて、こちらも大いなる勘違いだったが、しかし意図的ではなかったにせよ、そういうミスリードを生んだ。
それはフリアーズのソツのない演出が生んだ誤謬だったかもしれないが、いずれにせよその誤謬は個人的に良い方向に作用した気がする。
旅の中で成立する疑似親子のような関係は、ある種のシンパシーと、そして決定的な差異が同居していてそのバランス・距離感が丁度良い。
フリアーズについては「感情が溢れ出す手前で寸止めする」という印象があって、『マイ・ビューティフル・ランドレッド』や『グリフターズ』でも、登場人物たちは、生々しい(本当の)感情を溢れ出させることは少ない。
恋愛感情にせよ親子愛にせよ、その感情はギリギリのところで蓋がされているように思える。『ハイ・フィディリティ』にしても、主人公の饒舌な独白は、その饒舌さ故に空虚である、とも言え、やはり感情は押し込まれている。という強引な解釈はともかく。
フィロミナも教会での懺悔(で、いいのかな?告解?)の場面で、結局全てをさらけ出す直前で、それを押しとどめる。ギリギリで寸止め。
感情の蓋を開けてしまうと、これまでの人生やそこにいたった経緯に対しての呪詛めいた言葉がこぼれ落ちてしまうのかもしれない。もしかしたら、彼女の矜持はソレを許さないのではないだろうか。
この懺悔(告解)が行われなかったことが、フィロミナの最後の言動に繋がっている気がする。
”旅の終わり”あるいは”解決”の場面での、フィロミナとマーティンとの態度の差。それは宗教観や信仰の問題ではもちろんあるけれど、もっというとそれぞれが持っている矜持の違いだど思える。
マーティンのやろうとしている事は、とても現代的なモラルで罪を糾弾する事だ。それは、自分も含めて多くの観客のセンスに違い態度だろう。
一方フィロミナが下した”審判”は、一見するととても慈悲深く、揺るぎない信仰とはこういうものか、と感じさせる。
と同時に、彼女の決断は、そのおだやかな口調とは違って、とても激しい糾弾にもなっている。感情をギリギリで寸止めさせながら、自分の人生を支配している信仰という側面を武器にして、その矜持に沿った態度を取る。
彼女のような行動を選択するか、しないか、といえばおそらく自分は選択しないと思うが、それでもその結論にモヤモヤしたものを抱くことはなかった。
不思議なカタルシスがそこにあって、それはフィロミナが気品を保ちつつ、人生を清算したからかもしれない。

だからハーレクイン・ロマンスのような物語を喜々として語る彼女には、素直に耳を傾けてあげるしかない。