彼もまたonce againを求めていたのかもしれない 『幕が上がる』

という事で
『幕が上がる』

正しく青春映画であり、正しくアイドル映画であり、そして正しくももクロ映画であった。

本広克行監督作、という所謂「映画通」と言われる層にとってはマイナスハンデになりそうな要素は、少なくとも今作においては無視していいはずだ。というより、むしろここまでバランスを取りながら作品を成立させた事には感心する。
もちろん全てが完璧だったわけでなく、気になる部分がないことはないが、それはエンドクレジットのどうしようもない正しさの前では小さな問題だと感じる。
随所に見られる「ももクロ」ネタは、ともすればノイズになるのではないか、という懸念を払いのけ、結果的には際どくスリ抜けたといって良いだろう。*1

平田オリザの演劇は、そのイメージから何となく好みであるとは言いづらいものであって、それは彼のスタイルを継承していると思われる小劇場の芝居を観た事と無関係ではないと思うが、しかし一度だけ青年団の「ソウル市民」を観た事があるけれど、やはりそこにはフォロワー達とは明らかに違うオーラ、というか演劇の力というものがあったと認めざるを得ない。十年以上前に観たかぎりだが、それでもところどころ場面を記憶しているというのは、そういうことかもしれない。彼の小説を原作としたこの映画は、やはり演劇あるいはそれに関わることについての業のようなものとして表現されていた気がする。

この映画に対して鑑賞前から期待をしていたのは、去年のももクリの会場で流れていた特典映像で、そこには銀河鉄道の夜を演じる彼女たちが、その稽古風景も含めて延々と流れているのを観たからで、その時点でこの映画の成功をほぼ確信したことを告白する。

ももクロちゃんたちは、これまでにも「女優」としての側面を見せる場面は何度かあったが、それらと比較して段違いであることは疑いようがない。NHKでやった「天使とジャンプ」は、あれはあれで楽しいものだったけれど、「ああ、ももクロちゃんたちが女優ごっこしているなあ」という感想もまた正当なものでもあって、当時との成長は明らか。
五人が五人とも見せ場があって、何度かその見せ場では泣かされてしまうのだけれど、そういうバランスを取る事は大変だったと想像するし、だから場合によっては整合性を犠牲にしてでも、ももクロ五人の場面を作ったことについては個人的には賛成派である。

素晴らしいシーンはたくさんあって何度か涙腺を刺激された。
少しネタバレになるがいくつか挙げてみたい。*2

・ 定番だろうが、ホームで語るさおり(百田夏菜子)と中西さん(有安杏果
・ 屋上で舞台装置の塗装作業をするゆっこ(玉井詩織)と中西さん
  とその後ろで謎の踊りを披露しているがるる(高城れに
・ これも定番だろう。吉岡先生(黒木華)の手紙が読まれるシーンのがるるの表情。
  これは本当に素晴らしい。怒りと悲しみと強さと、いろんな感情が混ざり合っていた。
・ 地区大会でミスを連発する明美ちゃん(佐々木彩夏)とラストで駆け出す彼女の対比
・ 新宿のビル街で泣き出すゆっこを後ろ方でそれを見つめる中西さんの笑顔
・ ショッピングモールでのさおりと中西さんの会話。
  おもむろにさおりの目の前にあるメロンソーダを奪う中西さん。
  ここは一見すれば、単なる「色の遊び」のように思えるが、
  しかしそれにしては少し突飛な行動でもある。
  かなりの誤解を含めた解釈をすれば、あれは中西さんにとっても演劇へ向き合う決意のきっかけだったのではないか、と今になっては思う。

と、これは五人の場面中心に挙げてみたが、例えば現国の授業での先生(志賀廣太郎)や東京で芝居を続けている先輩のなんとも言えない「行きづまり感」とかも良い場面のひとつだ。
それから、部員たちには煙たがれれ、というか無視されているコメディリリーフとしての顧問(ムロツヨシ)であるが、彼は彼で演劇に思いを抱いている(いた)一人ではあるだろう。昔は今とは違うスタイルでアツイ情熱を演劇に注いでいたと想像する。おそらく今は、現実世界との折り合いをつけて、だからこそ部員達に対しては部活としての(ゴールのある)演劇を楽しむようなスタンスを取っているのではないだろうか。吉岡先生が全国を目指そうという話をしている時、妙に現実的にブレーキをかけようとする彼の姿は、むしろ愛情のある態度であるとも言えるだろう。だからこそ、さおりが「全てを犠牲にしても演劇に賭けてみる」という決意表明をしたことに我々は心動かされるのだと思う。

ラストはまさにあれしかない、という終わり方だろう。ラストにタイトルが出たことは、どうしようもなく正しい。それに続くエンドクレジットは、「時をかける少女」を思わせるもので、これもまた正しかった。

だからこそ、ももクロを全く知らない状態で観たら、果たしてどういう風に感じるのか、それを体験してみたくなる映画だった。

*1:終盤のカメオ出演の攻撃は、ややノイズのなったかもしれないが

*2:余談だが、酒焼けちゃんこと伊藤沙莉さんの姿を見れたのもまたこの映画の収穫でもあったことを付け加えておく

そうでなかった人生の清算方法。その2『あなたを抱きしめる日まで』

全ての映画はロードムービーである、といういかにもありそうなフレーズ。

という事で
あなたを抱きしめる日まで

このタイトルだけで観る気が失せる、という人も多いと思う。実際自分もそうだったけれど、結論から言うと、これは観て正解でした。
イギリスらしい程よい毒とユーモアのある良い作品。

ジュディ・デンチは当たり前のように素晴らしい。緊張の糸がピンと張った場面、あるいは少しユーモラスな場面。庶民的な暖かみと同時に気品ある佇まい。愛らしく、そして威厳のあるオーラ。流石という他ない。ヤング・フィロミナの人も、なかなか魅力的。

生き別れの息子を捜すフィロミナとその手助けをすることになるマーティンが始める旅は、もちろんロードムービーであると同時に、ミステリにもなっている。フィロミナとマーティンが出会うまでの展開はテンポが良くてスーっと引き込まれた。原作も未読であらすじもロクに読んでなかったので、「ははーん。これはアレがこうなって、こういう事になるんだな。ちょっと安易だけど嫌いじゃないよ」なんて予想しながら観ていたら、それは当然のように外れていて、こちらも大いなる勘違いだったが、しかし意図的ではなかったにせよ、そういうミスリードを生んだ。
それはフリアーズのソツのない演出が生んだ誤謬だったかもしれないが、いずれにせよその誤謬は個人的に良い方向に作用した気がする。
旅の中で成立する疑似親子のような関係は、ある種のシンパシーと、そして決定的な差異が同居していてそのバランス・距離感が丁度良い。
フリアーズについては「感情が溢れ出す手前で寸止めする」という印象があって、『マイ・ビューティフル・ランドレッド』や『グリフターズ』でも、登場人物たちは、生々しい(本当の)感情を溢れ出させることは少ない。
恋愛感情にせよ親子愛にせよ、その感情はギリギリのところで蓋がされているように思える。『ハイ・フィディリティ』にしても、主人公の饒舌な独白は、その饒舌さ故に空虚である、とも言え、やはり感情は押し込まれている。という強引な解釈はともかく。
フィロミナも教会での懺悔(で、いいのかな?告解?)の場面で、結局全てをさらけ出す直前で、それを押しとどめる。ギリギリで寸止め。
感情の蓋を開けてしまうと、これまでの人生やそこにいたった経緯に対しての呪詛めいた言葉がこぼれ落ちてしまうのかもしれない。もしかしたら、彼女の矜持はソレを許さないのではないだろうか。
この懺悔(告解)が行われなかったことが、フィロミナの最後の言動に繋がっている気がする。
”旅の終わり”あるいは”解決”の場面での、フィロミナとマーティンとの態度の差。それは宗教観や信仰の問題ではもちろんあるけれど、もっというとそれぞれが持っている矜持の違いだど思える。
マーティンのやろうとしている事は、とても現代的なモラルで罪を糾弾する事だ。それは、自分も含めて多くの観客のセンスに違い態度だろう。
一方フィロミナが下した”審判”は、一見するととても慈悲深く、揺るぎない信仰とはこういうものか、と感じさせる。
と同時に、彼女の決断は、そのおだやかな口調とは違って、とても激しい糾弾にもなっている。感情をギリギリで寸止めさせながら、自分の人生を支配している信仰という側面を武器にして、その矜持に沿った態度を取る。
彼女のような行動を選択するか、しないか、といえばおそらく自分は選択しないと思うが、それでもその結論にモヤモヤしたものを抱くことはなかった。
不思議なカタルシスがそこにあって、それはフィロミナが気品を保ちつつ、人生を清算したからかもしれない。

だからハーレクイン・ロマンスのような物語を喜々として語る彼女には、素直に耳を傾けてあげるしかない。

そうでなかった人生の清算方法。その1 『LIFE!』

なかんだかんだと年度末〜年度初めにかけて人並みにバタバタとしていた。
とはいえ別に仕事漬けになっていたというわけでもなくで、広島までPerfumeフェスを観に行ったりはしていた訳だが。

ということで
『LIFE!』

ベン•スティラーというだけで 全てを許してしまう自分だが、いやコレ良かったですよ。前評判も余り耳に入らないし、多少不安を抱えての鑑賞だったけど、いやはやどうして。
一枚の写真を追い求める道程は、もちろんロードムービーだし、ミステリでもある。
お気に入りのシーンはいくつかあるが、やはり酒場での「スペース•オディティ」が一番かな。まさに、ウォルターの背中を押したこのシーンで流れるシェリル(クリステン•ヴィク、イイですねえ)の歌声が素晴らしい。これを聴くためだけにサントラ買ったくらい。
あとは山でのシェルパとのやりとり。まさにベン•スティラーという感じで肩を揺らして笑った。大好物です。

ウォルターのように白昼夢的世界に意識を飛ばしていれば、当然のように日常生活に支障が出るのは仕方のない話だが、しかし「こうでなかった人生」に思いを寄せるという事は誰しもやることだろう。ふとした生活の隙間にライトな妄想にふけることくらい皆やっている、はず。
ややインフレ気味に過剰になっていくウォルターの冒険が、違和感なく見続けられるのは、やはりベン•スティラーのなせる技であるという点を抜きにしても、「こうでなかった人生」へステップインしていく事へのカタルシスというものもあったのだろう。鑑賞後の爽快感は高い。
ジェイソン•ボーンのような、あるいはスパイダーマンのようなアクションやバトルシーンへの憧れは、見ようによっては陳腐さをまとっていて、それこそがウォルターのインナーワールドの現れかもしれない。当たり前だけど、そんな現実が訪れる訳がない。
ウォルターの旅は都会からどんどん離れてマージナルな所へ行くが、それにつれて彼はリアルな身体(と精神)を取り戻しているようだ。確かにヘリから荒れた海へ飛び降りたり火山の噴火に追いかけられたりすることは日常生活から遠い。しかし、そこに身を置いているウォルターは生身だ。彼がそこで発揮する能力は、今まで夢見ていたような超人的なものではない。ウォルターが元々持っていた(そして隠され、忘れられていた)パワーだ。山道を颯爽と駆け抜けるスケボーシーンに心踊るのは、そういう理由からではないか。
旅の終りとそのオチは、驚愕のドンデン返しという類ではないものの、ある種の驚きと納得を与えてくれる、とても良く出来た締めくくりだった。
素直にグッときたし、やや綺麗にまとめた感もなくはないし、そりゃ『トロピック•サンダー』の方が好物だけど、コメディとのバランスを取りつつウェルメイドに仕上る手腕はなかなかだと思う。
ま、ベンジャミン•バトンのパロディは、ちょっとどうかなと思った事は付け加えておく。

ラーメン食べたい、と彼女は言った。『ももクロ春の一大事2014国立競技場大会』

あれから一週間か。ということで行って来ました、国立競技場。
今回参戦したのは3/16(日)。初日についてはチケットが取れず、こうなったらLVもスルーして情報をシャットアウトし、まっさらな気持ちで国立へ向かおう、などと考えていたが気がつけば某巨大掲示板に入り浸る始末。

それはともかく。
いきなり結論から言うと、国立競技場という大きな舞台に臆することなく堂々としたステージングだった。
聖火台にステップを踏みながら登場した5人。このステップのコミカルに同居する格好良さにジンとくる。
そこから始まるステージには、まさにこれまでのももクロちゃんと、これからのももクロちゃんが詰め込まれていた。
例えば去年の日産のように目まぐるしく色んな要素てんこ盛り(こういったノイズも、ももクロちゃんの魅力ではあるが)の、ある意味「勿体無い」使い方と比較すると、凄く真っ当でストレートな3時間半。ゲストも最小限に抑えられ、茶番も少ない。
かと言ってよそ行きの格好をしていたという訳でもなく、例えば新曲「堂々平和宣言」の胡散臭いサングラスといったダサカッコ良さといった要素や随所に見られるワチャワチャとした空気など、らしさを発揮しつつ大舞台をしっかりとこなす姿は、頼もしい。彼女たちの吸収力の底知れなさには驚かされる。
GOUNNの後半演出を観た時の「あれ?これは…」という既視感。Perfumeのドームツアーでも使われていた客席との合成映像技術。後でライゾマの真鍋大度が関わっていたことを知り、少なからず驚かされた訳だが、そう言われてみればblieve冒頭のシルエット(これカッコ良かった)やレーザー演出もそれっぽいと言えばそれっぽい。こういう雑食的に色んなスタイルの取り入れ方には賛否あるかもしれないが、個人的にはバランスが取れていたと思う。中島みゆきの新曲も、じっくりと聴き込んだ訳ではないが、杏果の力強いパートが印象的でとても良い。

「あの空」で締めくくられたエンディングは予想通りであったが、予想通りである事で余計に感情がかきたてられる。
そして最後の挨拶。
突然歩き始めた高さんに、「はは。まさかそんな事はあるまい」と思いつつも、多少の戸惑いを感じたが、それはともかく。
「この景色が夢でした」で早くも涙腺が緩む。そこからは5人それぞれが、皆自分たちらしい言葉で挨拶をしていく。
そしてリーダー。
相変わらずgdgdから始まりながらも、直感的に素晴らしいコメントをする彼女。
「大人はもう壁を作ってはくれない」
ことを悟った上での力強い決意表明は流石の一言。

唯一後悔があるとすれば5色変化のギガライトを購入出来なかったことくらいで(15日参加なら間違いなく買っていただろうが)、まさかこれほど活躍するとは思っていなかった。しかし自分の紫ペンライトには当然5色が混じっているのだ、と強がることにする。

そうして満ち足りた気分で帰宅したんだけど、国立終了わずか1時間後にラジオの生放送で相変わらずのワチャワチャとバカ騒いでいるのを聴いて、妙に安心して眠りにつくのでした。

8秒間に救済を求めて。『ダラス・バイヤーズクラブ』

それにしてもケイト・ブランシェットはあと3〜4つくらいオスカー像持っていきそうだ。
それはともかくマシュー・マコノヒージャレッド・レトのオスカー受賞は喜ばしい。

という事で

ダラス・バイヤーズクラブ

ファイト・クラブ』でのジャレッド・レトフィンチャー作品における金髪の女神の系譜にあるというのが個人的見解であるが、『レクイエム・フォー・ドリーム』以降のキャリヤについてはフォローしていない。『チャプター27』も結局見逃したままここまできた。
久しぶりに観たレト君は、ここでもヒロインとして素晴らしい存在感だったと思う。

ずっしりと重いテーマを重いままのリズムで終始させるタイプかと思いきや、意外とユーモアが散りばめられていて、もちろん厳しい現実がそこにある訳だけど、少なからず軽やかなステップすら感じる映画だった。そしてそれは良い方向に作用していたと思う。空港や国境を切り抜けるために牧師や医師に変装してのやりとりは、素直に楽しい場面だし、またマーク・ボランの写真をめぐる一コマには思わず声を出して笑ったりした。
激やせのマコノヒーの凄みは確かに鬼気迫るものであるが、彼であると見分けがつかないような相貌の中にも瞳と特徴的な鼻の存在感に妙に感心したりする。

ロンの行動は捨て身の慈善事業として描かれてはいない。彼は決して善行を行いたいわけではなくて、いやもちろんそこに正義はあるけれども、どちらかというと生き抜くためにバイヤーズクラブを成立させようとしている。
「会費は400ドルだ」と50ドルしか持ってこなかった哀れな若者はあっさりと門前払いにするし、事務所開設のために空き家を提供してくれた相手に対して家賃を値切ろうとしたりする。抜け目なく。だからこそ彼の行動は切実で、それはビジネスとしての成功とともに生き延びるための唯一の手段だからでもある。クラブを始めてからのロンは、確かに健康体からはほど遠いが、しかしその瞳は死んではいない。
ゲイを忌み嫌うカウボーイという役柄は、マコノヒーのパブリックイメージと重なるようで、だからこそロンとレイヨンの関係に感情がざわつくのかもしれない。
打算から始まったロンとレイヨンの関係は恋愛関係ではなく、友情でもなく、ビジネスパートナーでもなく、また同時のそのどれでもあるというものだ。おそらくロンはゲイを最後まで容認してはいないだろう。ただレイヨンの尊厳だけは大事にしたいという気持ちは芽生えているようだ。それは死に直面したからかもしれないし、単なる親心のような感情かもしれない。
そういった一定の距離感を保ちながらも静かに流れる感情の交差は美しい。

電気が切れていることに気づいて、そこに歩み始める瞬間のざわつきもまた貴重な時間で忘れがたい。
電気技師の矜持を感じる場面かと思いきや、思わぬ啓示のようなシーンだった。
ラストの泥臭くも美しい場面とともにとても印象的だった。

キャットファイト寸前の静かな威嚇。『アメリカン・ハッスル』

浪人して予備校に通ったり(通わなかったり)したが、当然のことながらそこで友人を作るなどという芸当を持ち合わせているはずもなく、かといって孤独感や疎外感を抱いていたわけでもなく、まあフラットに過ごしてたと思う。予備校で誰かと話すということも滅多になかったが、たまに話しかけられて名前を聞かれると適当に作った偽名を答えたりして。いやはや恥ずかしい話です。

という事で
アメリカン・ハッスル

ラッセル組大集合というような華やかさのあるキャスト*1だが、しかし騙し騙され丁々発止のコン・ゲームの痛快さ、というものを期待してはいけない。
ラッセル作品は前作の『世界に一つのプレイブック』しか観ていないが、その印象としては緻密なストーリー展開や派手さのある演出をするというよりは、人間の機微・心の動きを巧みに表現するタイプという印象。今作でも各々の登場人物たちの感情の揺らぎを丁寧に捉えている。
登場人物たちは皆、偽りの姿で過ごしている。冒頭から「ごまかし」に必死になる男が登場するくらいだ。
容姿や出自、あるいは自分の能力を必要以上に見せようとするのは、まあ人間誰しも持っているものだが、そういった偽りが暴かれる過程や瞬間は、ここでは痛快なものではなくて、いたたまれない状態として描かれている気がする。そういった描写はこちらの心を揺さぶる。
その中で、唯一自分を偽ることなく生きている(ように見える)のがジェニファー・ローレンス演じるロザリンかもしれない。不安定ではあるが、ある種の強さを持っている彼女は、だからこそ”I know who you are”と言ってのけることができる。全てを見透かすかのように。*2この時点からシドニーは、それまでの強さよりも弱さの方が際立つようになってくる。そんな変化を演じるエイミー・アダムスもまた素晴らしいが、しかしここはジェニファー・ローレンスに軍配。
主人公三人のトライアングルから、蚊帳の外のように存在していたロザリンが、次第に光りを放ち始め、と同時に映画自体もドライヴがかかってくるようだ。彼女の言動は、混乱をもたらしてはいるが、一方で主人公たちに贖罪の機会と救済を与えてくれる存在でもなる。
ロザリンは、軽やかといってもいいフットワークで人生のステップを上がっているようだが、しかし後に知った情報では、モデルとなった実在の人物の方は、映画とは全く違う人生を歩んでいたという。
映画には全く描かれてもない事ではあるが、その事実に言いようのない感情を抱く。
現実に贖罪と救済を必要としていいたのは、誰よりもロザリンだったのかもしれないという事を考えながら、しんみりと熱燗を呑むことにする。

*1:それにしても新旧体重増減役作りアクター対決は、なかなかの遊び心、という悠長な雰囲気ではなかったけど。実際あんな場面に遭遇したら確実におしっこ漏らしてしまう。

*2:いや、この場面本当に素晴らしかった。キャットファイト寸前の静かな威嚇状態は個人的に好物だが、それを差し引いてもこのジェニファー・ローレンスはかっこ良かった。わがままな肢体とあの鋭い視線。