キャットファイト寸前の静かな威嚇。『アメリカン・ハッスル』

浪人して予備校に通ったり(通わなかったり)したが、当然のことながらそこで友人を作るなどという芸当を持ち合わせているはずもなく、かといって孤独感や疎外感を抱いていたわけでもなく、まあフラットに過ごしてたと思う。予備校で誰かと話すということも滅多になかったが、たまに話しかけられて名前を聞かれると適当に作った偽名を答えたりして。いやはや恥ずかしい話です。

という事で
アメリカン・ハッスル

ラッセル組大集合というような華やかさのあるキャスト*1だが、しかし騙し騙され丁々発止のコン・ゲームの痛快さ、というものを期待してはいけない。
ラッセル作品は前作の『世界に一つのプレイブック』しか観ていないが、その印象としては緻密なストーリー展開や派手さのある演出をするというよりは、人間の機微・心の動きを巧みに表現するタイプという印象。今作でも各々の登場人物たちの感情の揺らぎを丁寧に捉えている。
登場人物たちは皆、偽りの姿で過ごしている。冒頭から「ごまかし」に必死になる男が登場するくらいだ。
容姿や出自、あるいは自分の能力を必要以上に見せようとするのは、まあ人間誰しも持っているものだが、そういった偽りが暴かれる過程や瞬間は、ここでは痛快なものではなくて、いたたまれない状態として描かれている気がする。そういった描写はこちらの心を揺さぶる。
その中で、唯一自分を偽ることなく生きている(ように見える)のがジェニファー・ローレンス演じるロザリンかもしれない。不安定ではあるが、ある種の強さを持っている彼女は、だからこそ”I know who you are”と言ってのけることができる。全てを見透かすかのように。*2この時点からシドニーは、それまでの強さよりも弱さの方が際立つようになってくる。そんな変化を演じるエイミー・アダムスもまた素晴らしいが、しかしここはジェニファー・ローレンスに軍配。
主人公三人のトライアングルから、蚊帳の外のように存在していたロザリンが、次第に光りを放ち始め、と同時に映画自体もドライヴがかかってくるようだ。彼女の言動は、混乱をもたらしてはいるが、一方で主人公たちに贖罪の機会と救済を与えてくれる存在でもなる。
ロザリンは、軽やかといってもいいフットワークで人生のステップを上がっているようだが、しかし後に知った情報では、モデルとなった実在の人物の方は、映画とは全く違う人生を歩んでいたという。
映画には全く描かれてもない事ではあるが、その事実に言いようのない感情を抱く。
現実に贖罪と救済を必要としていいたのは、誰よりもロザリンだったのかもしれないという事を考えながら、しんみりと熱燗を呑むことにする。

*1:それにしても新旧体重増減役作りアクター対決は、なかなかの遊び心、という悠長な雰囲気ではなかったけど。実際あんな場面に遭遇したら確実におしっこ漏らしてしまう。

*2:いや、この場面本当に素晴らしかった。キャットファイト寸前の静かな威嚇状態は個人的に好物だが、それを差し引いてもこのジェニファー・ローレンスはかっこ良かった。わがままな肢体とあの鋭い視線。