夕方のピアノを聴きながら。『七つまでは神のうち』

基本的に我々はヒロインをイノセントなものと考えていて、降りかかる災難は「何らかの力」によって最終的に回避されると思いがちだ。
あるいはそれが、悲劇的な結末になったとしても、そこには何らかの救いや赦しがあるだろうと期待する。

という事で
七つまでは神のうち


くすんだ色彩の画面からにじみ出る何とも言えない居心地の悪さ。清水崇中田秀夫の系譜とも言える不穏な恐怖描写。
何て事の無い一般的なリビングや教室を捉えたショットに張り付いている「イヤな感じ」は、果たして何に起因しているのか。
あらかじめ「ホラー」として観ている観客側にある先入観なのか、それは判らない。
しかし明らかにそこに存在している「不気味感」、あれは何だろうか。
所々に見られるホラーセオリーと言える撮り方は、既視感によってありきたりなものになる訳ではなく、むしろ次に来るものが判っているだけに怖さが増す、という方に作用している。
例えば序盤に出てくる白いバンは、登場した途端に明らかに不穏さをまとっていて、運転者の姿が見えないことも相まって、まるで『激突』のトラックのような存在感を持っている。
あるいは余りにも古典的な市松人形といった要素も、「記憶に刷り込まれた恐怖」を呼び起こすアクセントとして効果的だったと言いたい。


ある程度こちらの予想内の展開や描写がありながら、時間経過をシャッフル(と言うほどでもないが)してちょっとしたミスリードをさせる流れはなかなか上手いと思った。

最初に言ったように、我々はヒロインをイノセントだと思いがちだ。
序盤、父親と共にヒロインを襲う出来事は、とりあえずは「いわれなき災難」として描かれている。
そこにある因果関係は見えてこない。
もちろん何らかの因果関係があるくらいの事は想像してはいるが、しかしヒロインはあくまでも「被害者」であり、その「災難」は結果がどうあれ何らかの形で「救われる/赦される」ものだろうと思っている。


ヒロインの萌が心に闇を抱えていると思わせる描写。不登校を思わせる会話やリストカットの跡。
そういった情報は、萌の「被害者性」を我々に刷り込む。
しかし終盤になって萌は「加害者」へと転化していく。萌を襲うイベントは「(いわれなき)災難」から「当然の報い」へと変わっていく。


この既視感による予想通りの展開とちょっとそれを裏切る展開とのバランスは良かったと思う。
確かに「かつての行為の報いを受ける」という展開は特に目新しいものではない。
例えば学校で萌、カオル、レイナの少女が再会する場面あたりから、「ああ、これはつまりそう言う事なのか」という予想はつく。
予想はつくが、それでも、それぞれのパーツがハマった時は心揺さぶられるし、その種明かしはそれが単純な構図であるだけに、なかなかエグイ。
そしてその種明かしの場面においても、ヒロインがかすかな「イノセント」ぶりを見せるので、やはり最後は何らかの「救い/赦し」があるのだろうと錯覚をさせる。
その錯覚をさせるバランスが程よい。


不思議な「間」についても指摘しておきたい。
怪しい白いバンから拉致された少女が落とされる。
萌は少女とふたり林道に取り残されるが、なかなか拉致少女の拘束を解こうとはしない。
不自然な間で少女を凝視した後で、ゆっくりとヒロインは猿轡をようやく解く。
また、学校でのカオルの処刑シーン。
カオルが血で濡れた手で身体を貫通した鉄棒を抜こうとヌルヌルと手を動かす。
このあたり、不思議な間があって面白いと感じた。


ラストで萌は閉ざされた棺桶の中で神に救い/赦しを求める。
しかしやがてそれは、荒々しい叫びへと変化する。
神に救いを求めても無駄だ。赦しを乞う事も(ここでは)意味を持たない。
出てくるのはナリフリ構わぬ心の叫び。
その生への執着が、醜くもまた美しい。


メモ

  • 萌役の日南響子って子は初めて観たけど、裕木奈江っぽい不思議なビジュアルでなかなか良い。良いんだがエンドクレジットのCoccoの出来損ないみたいな曲は、ちょっと如何なものか。
  • お母さん役の霧島れいか、ちょっと気にしておきます。
  • パンフレットがほとんどチラシ並のクオリティだった。