百発パンチが映画的体験へと昇華する一瞬。『CUT』

観た映画について「どんな映画だった?」と聞かれて「良かったよ」「いや、イマイチだったね」といった条件反射的な回答を許さない作品がある。

と言う事で
『CUT』

どんな内容かと聞かれれば「借金返済の為に西島秀俊が延々殴られるんだ」と答える事になるだろうか。
面白かったか面白くなかったか、という評価軸は持ち込みにくい。気取った言い方をすれば「映画的興奮」がそこにあった、という事になるのか。
浴びた。
うん、映画を浴びたという感じ。


主人公秀二(西島秀俊)の映画「愛」は狂気に近い。
彼が拡声器で主張するアジテーションは、その余りにもストレートな表現によって野暮ったさすら感じさせるほど。
例えばそれを「厨二病」といった言葉で揶揄する事も可能だ。
しかしその真摯さには圧倒されてしまう。

秀二が殴られる事で感じる「肉体的痛み」は、そのシーンが続く事でやがて麻痺してくるかのようだ。腫れあがった顔や傷は生々しく描かれているが、秀二にとってその「肉体的痛み」は小さな問題になっている。
「兄が死んだまさにこの場所で殴られる事に意味がある」と秀二が言うように、兄への贖罪の為に痛みに耐え続けるという側面もある。
あるが、と同時に秀二の狂気的な映画愛が生む映画への殉教のようにも見える。
秀二の傷を癒すのは映画だ。自宅で映画を文字通り身体に浴びる秀二を見ていると、映画によって傷を回復させているようにしかみえない。
友人の映画監督が「もう何年も映画撮れてない。おかしくなりそうだ」と嘆くように、映画を撮らない映画監督=「死」そのものだ、というストレートで真摯な主張。
だからこそ秀二のラストの決断は至極当然の事になる。
こういった主張はあまりにも真っ当でアツい。そしてそれを納得させるほどの迫力がある。


気になるところがないわけではない。
確かに黒澤・溝口・小津の墓参りといった流れは、ともすれば「この名前出しとけばOK」的な陳腐さを与えかねない。
そういえば。これは非常にうっすらとした解釈なんだけど、黒澤・溝口・小津の墓を訪ねるシーンにはそれぞれ違う表現がされていた気がする。
例えば黒澤の場合は秀二が走っていたり、溝口の墓に刻まれた作品名を秀二が指でなぞる長いカットだったり。小津の時はどうだったかは微妙だし、とてもボンヤリとした話で申し訳ないけど。だれか詳しい人の解説を聞いてみたい。

あるいはヤクザ事務所の舞台装置が「良くないタイプのスタイリッシュな日本映画」的絵面に見えるような一瞬もなくはない。
しかしそれはラストの展開の前には小さな問題に感じさせる。

百発パンチの刑。
秀二が延々と殴られるシーンに百本の名作映画の題名が次々と並べられるだけのシーン。
ただそれだけのシーンなのに不思議と興奮してしまうのは何故か。
順不同という注釈で並べられた映画たちはアルファベット表記である事と切り替わるスピードに追いつききれず、その全てを認識する事は出来なかったが、この不思議な感動な何だろうか。
そしてラストの1本、あの作品名が画面に一杯になった時の奇妙なカタルシス
貴重な映画的体験だったと思う。
汗だくで汚いトイレで繰り返される暴力が次第に映画的興奮へと昇華して行く様を感じるだけでも観た価値があった。

西島秀俊をスクリーンで観たのは『Dolls』以来だろうか。あの映画の時も狂気に囚われた男だったが、今回も静かに狂気を発散する眼差しがあった。
常盤貴子の不思議な母性を感じるキャラクターも良かったし、菅田俊笹野高史の安定感も流石だが、やはりでんでんの存在感。彼が画面に出てきた時の「イヤーな感じ」、凄いね。


果たして我々は百発のパンチを受ける覚悟を持って映画に接しているか。
アミール・ナデリからの一発はボディブローのようにジワジワと効いてきそうな気がする。