病めるときも健やかなる時も…。『J・エドガー』

だいたい決まった席(ポジション)で映画を観る。
中央より後方の通路側。シネコンで言うとH列あたりに座る事が多い。
単純に端っこが落ち着くというのもあるし、いざトイレに行く事になっても他人の目の前を邪魔するリスクが少ないという理由もある。前の人の頭が邪魔になっても横にずれて観易いポジションを修正できたりもするし。
だからいつもの位置とは大きくずれた場所に座ると少し落ち着かない、なんて事もあったりなかったり。


という事で
J・エドガー

何とも言えない不思議な感慨を与える映画だった。
銀残しっぽい淡い色合いの画面で全体的に静かな印象だが、不思議と気持ちが高ぶる。
いや高ぶるというのは少し違うかな。グっとくるというのとも違う。染み入る、って感じだろうか。
淡々と進む2時間超は、しかしその上映時間の長さを感じることなく画面に引き込まれていた。時制があっちこっちに飛んだりはしていたが、決して混乱させることはない。基本としてトピックに関連する形で回想に入るので、判りやすい。その辺は流石というところか。


実在の人物を描いた作品の場合、どうしてもその人物への「評価」が偏りがちになるが、そこには一定の距離感が保たれていたと思う。
FBI初代長官フーバーの立身出世ストーリーでもなく、逆に「その本性を暴く」告発ストーリーでもない。
様々な側面を持つ「あるひとりの男」の人生を描いていた。
エドガーが自伝を口述筆記させているというスタイルも、実在する人物の評価が作品に与える影響をギリギリですり抜ける事に成功していたんじゃないだろうか。
以下ネタバレで。



特にラスト近くエドガー自体が信頼できない語り手であるとクライドに告発される場面が良い。まるでドラマやコミックの登場人物的に活躍したかのようなエドガーの姿。でもそれはエドガー本人が言っているだけで、なんの保障もない話っていう場面。
「何が本当で何が嘘か、自分でも判らなくなってるんじゃないか」
この場面がある事で、映画全体への信頼度が逆に増す。観客がリテラシーを持って判断する機会を与えられるというか。


エドガー本人への評価は作品内では断言を避けている。
終盤エドガーはテロの脅威や暴力の蔓延に対して危惧を唱える。この「だからこそ、強権を発動してでも取り締まる事が必要なんだ」というメッセージをイーストウッドの本心とするのは、少し早計な気がするがどうでしょう。


現代科学的捜査の礎を築いた、という事実。そして強い反共主義者で(おそらくは)レイシストであるという側面。と同時にその根底にある正義感と愛国心。あるいは強い信仰とそれによる抑圧…。こういった要素は平等に配置されていたと思う。毀誉褒貶がそのまま。
エドガーはこんな立派な人でしたよー」でもなく「いや、とんでもない野郎だったんです。実は」でもない。
「こういう人でした」それをそのまま提示している感じ。
我々は、ただただ「あるひとつの人生」を見せつけられるだけだ。そこにある人生を見つめるしかない。
そこを指してキャラクターに一貫性を感じないとか感情移入ができないとするのは、正当ではない気がする。人間の複雑さってのは、こういう事なんじゃないか。
とにかく。
J・エドガー』には、不思議な感慨を覚えてしまう。うまく説明できないけど、何なんでしょうね。
母親が死んだ時にアクセサリーやドレスを身につける場面を目にした時の不思議な感情の高まり。抑圧からの解放なのか、はたまた追悼の儀式なのか。


それにしてもまさかラブ・ストーリーになるとは思わなかった。
エドガーとクライド(とミス・ギャンディ)のラブ・ストーリー。
これ事前知識がなかったのでちょっと驚きました。
クライドがエドガーに言った「良い日も悪い日も、必ずランチかディナーを一緒に」って
完全にプロポーズじゃないですか!
エドガーがクライドと初めて会った場面もうまい。一瞬で「ああ、恋に落ちたんですね」って判る。クライドを演じるアーミー・ハマーの「いかにも」感の空気が凄い。『ソーシャルネットワーク』のハイソ青年とはまた違った、独特な「ソッチ方面感」を醸しだしていて、いやアミハマさん侮れない。



この表情!
エドガーやミス・ギャンディに比べるとクライドの老けメイクはやや質が落ちている感じもしないではないが、プルプル震えたり頑張っていたと思う。ただのナイスガイじゃないかもしれない。


それにしてもイーストウッドが(比較的誠実に)ホモセクシャルを描くとは、正直ちょっと意外だった。でもミス・ギャンデイとの関係も含めて『マディソン郡の橋』(未見だけど)よりは、よっぽどラブ・ストーリーとして出来が良かったんじゃないだろうか。


フィリップ・シーモア・ホフマンみたいな上半身を晒して最後を迎えたエドガーの姿を見ていると、ジンワリと染み入るものがある。
毀誉褒貶、功名も悪名も、いろんな評価を人は受ける。ただ、そのいずれにも人生はある。何にせよ。
という事かな。