ほとんどの映画は世界と折り合いのつかない男たちで出来ている。嘘だけど。『ザ・マスター』と『ハード・ラッシュ』と『華麗なるギャツビー』

という事で、しばらく鑑賞記録を忘れていたので、一気に3本まとめてドンといきます。
一部ネタバレありで。

まずはこれ。
『ザ・マスター』

僕の一番好きなホアキン・フェニックスは、『グラディエーター』でも『ウォーク・ザ・ライン』でもなくて『サイン』のメル・ギブソンの弟役だ、と受け狙いではなく思っていたりする。
一時期、引退だのなんだのと騒がれていて*1、それはとにかく今作のホアキンは素晴らしかった。
ホアキン演じる青年は、世の中との折り合いが上手くできない。過去の背景などは省略されているが、冒頭の砂人形を犯しているシーンを見ただけでも、いわゆる兵隊たちのおどけた日常という範疇を超えた異常さが際立って、もうそこから「この人…」って気になる。
世間とのズレを、だがしかし自分をそこに合わせることなく強引に歩いていく彼の生き様には、何故か『復讐するは我にあり』の緒方拳の姿が重なった。*2
彼は、マスターの側にいるが決して仕えているという風には見えない。確かに忠実なしもべのような行動をとってはいる。マスターとその周辺へ向けられる悪意に対しては過剰なほど攻撃的なリアクションで歯向かう。しかしそれは、マスターへの忠誠を意味していない、ようにしか見えない。その集団の中ですら、彼は折り合いをつけることができないでいる。
だからこそ彼が最後にとった行動については、色々と思う。
新たなザ・マスターとして系統者としての道を歩む、ということなのか。
あるいはマスターのもったいぶった教えも女性を口説く道具程度でしかない、という事なのか。
なんとなく後者であるような気がしないでもない。そちらの方が個人的にはしっくりとくる。
下手したら女を殺してしまうかもしれないし、いやもしかしたらトラヴィスのように彼女を救うのかもしれない。
わからない。
それにしてもエイミー・アダムス、怖い。メンヘルチックなシンデレラの印象がいまだに強いが、いやなかなかやりますね。彼女には是非「鬼畜」のリメイクで岩下志麻姐さんの役をやって欲しいです。

続いて。
『ハード・ラッシュ』

一転してマーク・ウォルバーグ主演作。緻密な構成や展開とは決して言えない今作も、しかしそういった部分は鑑賞の妨げにはならない。
元々ジョバンニ・リビシが目当てで観に行ったようなもので、そういう意味からは非常に満足した。
という点を差し引いても、だんだんと事態が悪化していく様は、サスペンスというよりもブラック・コメディ的*3で笑えたし、ラストのオチ*4で全てを許したくなるタイプの作品だった。
ここにも、折り合いがつかない男たちがいる。クリス(マーク・ウォルバーグ)の義弟アンディやブリッグス(ジョバンニ・リビシ)はもちろん、ここはセバスチャン(ベン・フォスター)だ。
主役クリスのかつての犯罪仲間であり友人であるセバスチャンは、クリスに対して負い目を感じている。セバスチャンはクリスにはなれない。にもかかわらず、分相応な生活にも落ち着くことができないでいる。
そういった折り合いのつかなさから彼が受ける報いは、当然の決着であり、同時にとても哀しい。
ベン・フォスターもとてもいい表情をしていたけど、ここはジョバンニ・リビシと役を交換してもいいんじゃないか、とも思った。ラスト付近で自分の運命を呪うでもなく受け入れるでもなく諦めるでもなく、そしてその全てを表現するのは彼の方が合っている気がしないでもない。中途半端な横恋慕も含めた何ともいえない小物感は彼にぴったりな気がする。しかしだからこそ、ジョバンニ・リビシ版セバスチャンにクリスが家族を預けるかどうかというとそれはまた疑問も感じるわけですが。

さて。
華麗なるギャツビー

これについては、ギャツビー邸でのパーティ。これが素晴らしかった、最初にと言っておきたい。
1920年代のパーティの音楽に、21世紀のコンテンポラリーミュージックを使うことは非常に正しいやり方だと思う。華やかさと下品さで満載の空気。決して上品な宴ではない、という事がしっかりと伝わってきた。
バズ・ラーマンのケレンは、時として鼻につきそうではあるが今作では上手くいっていたんじゃないか。レッドフォード版についてもまともに観たことがなくて、白いスーツのスマートなギャツビーさんが謎めいた男として周囲からの羨望を受けている、そんなお話かと勝手に想像していた次第。
原作未読である立場から言わせてもらえば、ギャツビーさん案外ややこしい人だったんだな、というところ。これちょっと意外でした。
ギャツビーは、華やかな成功者ではあるが、その成功の裏暗さと自らの過去によって、彼もまた世の中との折り合いを上手くつけられなかったひとりだ。
「まともな人間はピンクのスーツなんか着ないよ」(大意)というトム・ブキャナンの指摘は、ギャツビー同様、我々も(というか自分は)「ああ…繕えない綻びというものはあるのだな」と打ちのめされる気分になる。
バブルの徒花的なギャツビーの存在が、激しいテンションによって剥き出しにされるのと同時に、映画も破滅へとギアをきる。そしてギャツビーの破滅は、20年代アメリカの栄華が終焉する事と重ね合わさるようにして映画は終わる。*5
折り合いのつけられない人間が、いくら孤高で崇高な存在だと言われても、結局はデイジーのように、上手く折り合いをつけて(という風にしか見えなかったけど)いく人間の方が、ハッピーを享受できてるんじゃないか。という気もしてくる。ま、当たり前か。
ディカプリオは、とても良かったと思うんだけど、どうしても『ジャンゴ』のキャルビン・キャンディが浮かんできてしまって、いつか誰かの脳天ぶち割るんじゃないかとソワソワした。
あと、キャリー・マリガンはやっぱり良いですね。以前は、どちらかというと嫌いなタイプという先入観を持ってたんだけど、『ドライヴ』と『シェイム』で一気に高感度がUPいたしました。

という感じで強引に「折り合いのつかない男たち」としてまとめてみた訳だけど、彼らの佇まい、というか趣きは当然バラバラだ。
『ハード・ラッシュ』のセバスチャンには「どうしようもない哀しさ」を感じるし、『ギャツビー』にはある種の矜持のようなものを見て取ることだってできる。いずれも出来る事なら折り合いをつけてやっていきたかったはずだ。
そんななかで『ザ・マスター』のホアキン・フェニックスには、ハナっから折り合いをつける気がないようにしか見えない。
自分が持っている社会と相容れない凸凹をあえてそのまま、むしろそういった部分を強化してズンズンと突き進んでいるのが彼が演じるフレディではないか。
そういう意味では『ザ・マスター』のフレディは彼なりのやり方で「折り合いをつけている」男なのかもしれない。

*1:『容疑者ホアキン・フェニックス』を見逃しているので早く観なければならないが

*2:あと痩せていたこともあるかもしれないけど、D・デイ・ルイスにも見えたよね。

*3:短時間でどんどん悪い方向悪い方向へ転がるところは、ちょっとスコセッシの『アフター・アワーズ』を思い出した。いや、全然違うけどね。

*4:正直、ポロックは無警戒だった。微妙なチラ見せ具合は今になって思えばなかなか巧みだった、というのは言い過ぎか。

*5:そこに郷愁を抱かない。というのは実は嘘だったりして。何だかんだと「いや。でもバブルの頃、楽しかったじゃない」とその恩恵を全く受けていなかった自分ですら時に抱くという。これは頭の悪い証拠に違いない。