クロコダイルダンディーと殺意の夏『熱波』

リスボンって何か良いよね、と思わず口に出してしまったが実際には行った事もなければ、どんな街なのかも良く判ってない。
でもリスボンという音の響きに発語の快感があるし、上手く説明できないが不思議な魅力がある街に思えて仕方がない。

という事で
『熱波』


ほとんど予備知識もないままに、暑いというより熱い日差しの中でユラユラと宮益坂を上ると、劇場の前には列が出来ていた。
この小さな小屋で観るにはピッタリの作品だったと思うが、それは別に本作が小ぶりであるという意味ではない。
イメージフォーラムという場所が喚起させる香りを冷たいペットボトル飲料で飲み干しながら、ノスタルジーに近い感傷を抱いて席に座った次第。
そこへ足を運ぶ行為そのものが映画的体験などと言うつもりはないが、いや待て、やはりそういうべきなのかもしれない。

モノクロの映画を劇場で観るもの実に久しぶりのような気がする。
そのモノクロ画面はデジカメのエフェクトのような取ってつけたようなものではなく、正しいモノクロと言いたくなるルックを持っていた。
序盤ピラールがアウロラを迎えにいった場面で、会話する二人をとらえたショット。ソファに座ってるのかと思いきや、次第に背景が動いていることが確認できる。船だがバスだか判らないが何かしら横移動するモノに二人が乗っている事が判るこの場面は、アウロラがかけていたサングラスとともに印象に残る。この場面だけで勝ちのような気がした。

第二部における(擬似的)サイレントはもちろんだが、第一部においても会話の数は(その音量とともに)少なく、また登場人物たちが感情を露にする場面は限られている。
その静かさに、一見起伏のない生活を切り取ったように勘違いしてしまいそうになるが、ピラールの日常はそれなりにバラエティ。デートらしき事もしているし、その相手からの求愛めいたこともある。市民デモに出かけ、ホームステイの受け入れだってしている。
しかし彼女はそのいずれにも、それほどの頓着をしていないように見える。いや、もしかしたらそうではないのかもしれないが、少なくとも大きなリアクションは取っていない。
だた、隣人アウロラに関しては少し違うようだ。それが何に由来しているのかは明らかではない。彼女とアウロラの関係についてもグレーのままだ。
しかしピラールがアウロラのために「祈り」を捧げている場面を観ると、なぜか心動かされる。ぼそぼそとつぶやくような声がより一層その祈りの「切迫さ」を表しているような気になる。そしてそれは哀しい。理由はわからない。

第二部では登場人物たちはまったく言葉を発しない。唯一歌う場面を除けば、全てはナレーションで説明される。
若いアウロラとベントゥーラの物語は、ストーリーとしては典型的と言っていい。許されざる恋、燃え上がる感情、そして訪れる悲劇。
しかし擬似的サイレントという手法が理由なのか、退屈さは全く感じない。

第一部との対比で第二部の登場人物たちは、記号的な表情や動きを見せる。驚き、悲しみ、怒り、怯え、愛情…。
時にそれは無機質なオーラを帯びるが、だからといって観る者の感情にタッチしないという事を意味しない。サイレントである事、記号的な動き、それらのバランスは絶妙であったという他なく、しっかりと心は動かされる。
キーワードのように登場するワニは、きっと何かのメタファーとして考えるのが至極妥当であることは間違いないのだけれど、判らないのでそこは逃げる。ただ、あのワニの無表情は、この作品における登場人物たちの佇まいに何か通ずるようなものがある気がしてならない。

第一部のピラールはもちろん第二部には登場しないし、第二部の世界とは断絶しているとはいえる。
しかし第一部でピラールが捧げた祈りは、若いアウロラに届いているのではないか。というのは感傷的すぎるだろうか。
さらに言うなら(勘違い、誤謬であることを恐れずに言うなら)、第二部はピラールが作り出したストーリーではないか、とも思えてきてしまう。
そのことでアウロラもピラールもそしてヴェントゥーラも癒され、赦されるのではないかな、なんて。

考えすぎかしらね。