突然ストンと落ちることの正しさ。『欲望のバージニア』

二十数年前に日本青年館で観たニック・ケイヴは、そりゃあカッコ良くて、ああいう大人になりたいものだと思ったりもしたが、思っているだけでは理想の状態にはたどり着けない。現実はなかなかツライ。*1
ニック・ケイヴもしばらく聴いていないが、まさか映画の脚本を書いているとは知らなかった。知らなかったが、そこに驚きはない。彼の書く曲(詩)は文学的要素の濃いものだったし、確か詩集も出していたはずだ。

という事で
欲望のバージニア


鑑賞してからかなり時間が経っているので、細かい記憶の食い違いがあることを承知の上で書いてみる。

禁酒法時代を(文字通り)サヴァイヴした伝説の兄弟の話。暴力、密造酒をめぐる争い、権力との攻防、といったキーワードから導かれる破滅の美学という類型。
確かにその方向へ一度映画は傾く。しかし我々に一定のカタルシスを与えておいて、そこはサラリとかわす。
南部的世界。あるいは呪術や情念、というテーマ。そういった語句はニック・ケイヴの作品群から想起されるイメージではあるが、その要素が色濃く表現されているわけではない。
描かれる血と暴力やそれを巡る展開は、おどろおどろしい方へ傾斜しすぎることなくストーリーのなかに上手く収まっていた。
隠し味、というよりは、欠かせないスパイスとして効いているんだと思う。

三兄弟やヒロインのふたり、敵役たちといった主要な役どころについては、それぞれが適していたというのは言うまでもないが、クリケットデイン・デハーン)の存在が印象深い。
どことなくベニチオ・デル・トロに似た顔を持つこの少年は、この作品の真のヒロインであったと言いたい。
社会的弱者でありながら、いや、であるが故に密造のキーパーソンとして配置されているクリケットは、無敵な三兄弟となんだかんだと強者である女性陣の中にあって、這い上がり・成り上がる正当な理由を、その資格を持つ存在ではないか。
破滅という悲劇(とそのカタルシス)という役割がクリケット一人に託されているように見えてくるのは気のせいではないと思うが、どうか。
ジャック(シャイヤ・ラブーフ)とおどけて写真を撮る場面。緊迫した時間が続くなかで息抜き的アクセントであると同時に、クリケット自身にとっても今まで味わったことのない青春の一ページに見えてくる。
だからこそ最期を予見させるフラグとなっているわけだが、あの笑顔は哀しさをドライヴさせる。
ミア・ワシコウシカやジェシカ・チャスティンも美しく、両者とも印象的な眼差しを見せてくれたことは間違いない*2けれど、彼の笑顔には敵わない。*3 というのは少し言い過ぎかもしれないが、それほど印象に残る存在だった。

フォレスト(トム・ハーディ)の不死身さは、もはやギャグすれすれであって、というか結末を見るとそういう意図があったと思えてならない。
もはや不条理コメディに近い。あるいはホラー。
といいつつも。
不穏なムード、あるいはそれぞれの感情の動きや恋愛模様、悲劇的な出来事へ至る過程、などなど映画を構成している領域は各々侵されることなくしっかりと成立している。しかもテンションを保った状態で。

ラストは文字通り「ストンと落ちて」いて、素晴らしい締めくくりだったし、思わず声を出して笑ってしまったのだが、それで正しいんだと思っている。

ニック・ケイヴが担当した音楽も素晴らしいので是非。

LAWLESS

LAWLESS

*1:と思ったらそれは彼らも例外ではなくて、最近のブリクサ・バーゲルトの姿をネットで見つけたら、結構びっくりしたりする。

*2:フォレストとマギーの緊張感ある距離感が変化していく過程で交わされる視線のやりとり!

*3:オーバーオールのせいか、『ギルバート・グレイプ』の頃のディカプリオにも見えた。