偽装されたハッピーエンド 『エリジウム』

風呂なしアパートでクーラーもなく暑い日々を過ごしながら、高台の高級住宅街を恨めしそうに見つめていると『天国と地獄』の山崎努のような心境になったあの頃。

という事で
エリジウム

エリジウムの存在がどういう位置づけなのか。独立した国家なのか、単なるブルジョアの作り上げた楽園なのか。地球の政治はどうなってるのか。経済は。
とか。
そういった部分が多少なりとも気になったのは瑕疵というべきかもしれないが、逆にいえばそういう箇所があったということは作り込まれていたことの証と言えなくもない。
前半の地球パートから後半のエリジウムパートはリズムが変わって行くが、それがシームレスに感じるあたりは、やはり良く出来ているのだろう。
ただ『第9地区』ほどの興奮も驚きもなかったというのもまた事実。
以下ネタバレしながら。


ジョディー・フォスターの存在感は流石といってよく、「最後はいい人に」という着地点み見せかけながら、実際には諦観を帯びた瞳で迎える最期など、程よい距離感が良い。
ただちょっと楽していた感は否めない。

クルーガーのやさぐれ具合は、その小物感も含めて嫌いではないが、終盤の対決シーンでの唐突な「ジャパンテイスト」は正直、よくわからない。あの梅(桜じゃなかったよね)なんなんですかね。
プリゾンブレイクのあの人も、「おや。今回は結構出番あるな」と思ったら途中退場してしまった。ラスボスではないにせよ、中ボスにもなりきれなかったというところか。今ひとつ、ブレイクしないですね、この人も。

とか色々とありつつ。
やはりこの映画の肝はラストにある。
個人的に映画の中では死なない属性に分類しているマット・デイモンがその自己犠牲によってもたらした「人類みなエリジウム市民!」という結果は果たしてハッピーエンドなのか。
空から降り注ぐようにやってきた万能医療ロボットは、歓迎すべき幸福の知らせ、というよりは堕落と荒廃をもたらす禍々しい厄災と捉えた方がよさそうな気がする。
最大多数の最大幸福の究極とでも言うべき世界は本当に成立するものなのだろうか。
どうにもこうにも「その後の世界」は、うまく立ち行かないとしか思えない。
そしておろらくは意図的なハッピーエンドの偽装だと思えるこの結末をみれば、やはり一筋縄ではいかない作風なのだな、と納得してみたりする。
という事をボンヤリと考えながら劇場を出ると、仕事上のトラブルが待ち構えていて映画どころではなくなったという、バッドエンドを迎えた事は、この映画にとって不幸だったのかもしれない。