そんな眼で僕を見るな!『クロニクル』

どうも個人的な今年の顔はデイン・デハーンになるのかもという予感をしつつ。

という事で
『クロニクル』

正直、ただそれだけの理由で観に行ったようなもので、デイン・デハーンを愛でることができれば良いだろうという程度の期待感。
だったのだが。
劇場を出たあともジンワリと残る感情の静かな高まりは何処から来るものか。

鬱屈や抑圧を抱えた十代をとりまく日常を描いた導入部。
確かに晴れ晴れとした瑞々しさからは遠いものであるが、POVというスタイルによってそのリアルが補完されている。
その為に、その後の超常現象の映像の「不思議なリアルさ」が際立つ。
CG技術には慣れっこになっている我々にとっては、「うわー。どうやって撮ってるんだろう!」という驚きはもうすでに通り越している。
今更、そんなところに構っている場合ではなく。
そんなことよりも、まさにyoutubeで他人の生活を覗いているような映像で、ボール浮いたり身体が浮いたりする状態にシームレスに入り込めるスタイルに先ず感心した。
「うわ。空飛んでるよ」という驚きではなく、というか日常へ異常事態が入り込んだことにより異化効果のレベルは高い。

決して能天気に晴れわたっている訳ではないアンドリュー(デイン・デハーン)の生活は、マットおよびスティーンによって(正確には彼らが得て”しまった”能力によって)徐々に変化していく。
超能力学園Z的なスカートめくりや駐車場でのいたずらというアホな高校生的生活の楽しさは、能力の獲得・機能拡張とともに危ういバランスによる悲劇を予感させるフラグであったという点で、今となっては不幸な話であったのかもしれない。

パーティでの”挫折”は、マットやスティーヴにとっては青春のエピソード程度の取り扱い事項にしか過ぎない。
しかしアンドリューにとっては、「そんなことで僕のことを拒絶するのか。そもそも君は僕のこと好きじゃないのか」という赤毛の子に対する、というよりは世界に対する敵意へと繋がる切実な問題だったということなのだろうか。
アンドリューがマットに「僕の事好き?」という問いかけは、決して何気ないものではなくマットが思わず戸惑うほどの切実感がともなっていた。
能力をコントロールする術を(おそらくは)持っていたであろうマットやスティーヴではなく、アンドリューこそが抑えきれないほどのgreat powerを手にしてしまったことの悲劇。処世術を元々持ち合わせていないアンドリューが使いこなすことができるわけもない。
そのことの哀しさ。
文化祭で綱渡りやジャグリングで適度な人気を得る程度の使い方ができていれば、超能力学園Zのようなアホで楽しい人生を送れたかもしれないし、あるいは正義のヒーローになることもできただろう。
でもアンドリューにそれはできない。ル・サンチマンを抑えることなんてできない。
そしてそれは我々も同じことだとも感じた。

その点で、スーパーマンのアナザーサイドとでも言いたくなるような側面も持っていた。
というのは誤解だろうか。
能力を手にした(持っている)者が必ずしも大いなる責任を持ってその力を行使できるわけではない。
たいていは欲望の達成のために使うことになるだろうし、おそらくは欲望のエスカレーションは止められることはなく、スカートめくりでは終わらない。

何にせよ、現在「大人は判ってくれない」属性においてデイン・デハーンが抜け出ているのは言うまでもなく、彼のキャスティングでこの作品の勝ちは決まっていたと言えるだろう。
あの眼差しと時折魅せる笑顔の破壊力は素晴らしい。
加えて、マットやケイシー役の子もまた魅力的だった。特にマットは、ゴツゴツとした顔にどこか達観と知性を感じさせる半開きの眼が良い。その知性や達観こそが、アンドリューにまた疎外感を与える要因だったのかもしれないとも思う。

アンドリューが自分の生活を撮り始めた動機については、モヤモヤとしていたがこうして書いていると、なるほど世界への承認欲求の手段だったのかもしれないと思い始めた。
「僕のこと愛してくれるかな?」

マットがチベットへ置いてきたカメラは、やがて誰かに見つけられるだろうか。