ローラ・ダーンに匹敵する破壊力を持った泣き顔を見せてくれたドーソン姉さんに敬意を込めて。『トランス』

自分の中にある映画や小説その他エンターテインメントのリファレンスから「これはアレがナニでソレなんじゃないか」という想像や予想はするもので。

と言う事で
『トランス』

シャレオツな音楽と映像で彩られた犯罪サスペンスbyダニー・ボイル、という認識で鑑賞したわけだけど、それはいい意味で裏切られた。
すっきりと全てが解決というカタルシスはないが、それがむしろいい方向に作用していて満足度は高い。世界がグワンと歪む感覚の心地よさ。

絵画の行方を探る、という目的が主軸となっていながら、それが記憶を探る(再生する)という鍵に委ねられている展開になっていることで、我々は既に騙されている。騙されるしかない。
記憶の再現によって「絵画の行方」という謎を解決するという展開は、ストーリー上のカタルシスを与えると同時に我々の視点を誘導することで色々な判断が狂わされるという効果がある。
では「信頼できない語り手」のオンパレードによって、それが「結局何でもあり。言ったもん勝ち」という展開にはなっているかというとそうではなく、それは適度な混乱とカタルシスが良いバランスで配置されていたからだろう。

インセプション』が現実と夢の世界を「階層1、階層2、…階層n-1、階層n」という直線的でわかりやすい構造で表現していた事ーもちろんそこで現実とされている世界が階層nに過ぎないという疑念を抱く余地はあるものの、直線的に階層を降りて(上がって)いくという構造は単純で判りやすいーと比較すると、今作では現実と睡眠療法中の世界がバラバラにそしてシームレスに進行していることで、観客に混乱が生まれる。
確かに「これは催眠中の世界ですよ」という印が刻印してある場面もあるし、その他ヒントめいたものが散らしてあるようだが、それがまた曲者であって。サイモンとエリザベスの初対面での、過去に面識があることを隠す気のない描写や会話による伏線・ヒントといったものが却って我々を迷わせる。
インセプション』にせよ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』にせよ、あるいは『マトリックス』でも良いが、そこで描かれるレベルの異なる世界間の旅は、いずれも「元に戻る場所」(それがリアル世界であるなしに関わらず)があるという前提がある。
その前提がある上での、行ったり来たりであったはずだ。しかし『トランス』ではその「戻るべき場所」がはっきりとしない。させていない。
我々が途中まで、ここが「戻る場所」なんだな、と思っていた世界はアッサリと覆される。
基盤となる立ち位置が不安定であることに対する我々が抱く疑念は、そのまま作品内のキャラクターが他者(あるいは世界)に対する抱く疑念と重なる。それによってサスペンスとしての要素が成立しているといっても良いと思う。

そして忘れてならないのはキャスティング。
何より、ジェームズ・マカヴォイというキャスティングが、すでに我々を騙すものになっている気がしてならない。

以下はネタバレ。

サイモンというキャラクターに我々は感情移入する。彼が絵画を隠したのが意図的だったのか事故だったのかは別にして、そこには何かしら観客を説得できるだけの大儀があるだろうと無意識に感じている。絵画を守る為にフランクを出し抜いたにせよ、あるいはエリザベスと共謀し絵画を手に入れようとしていたにせよ。
ジェームズ・マカヴォイのキャリアを全て追っているわけではないが、彼が演じている時点で多かれ少なかれそういった先入観は持ってしまうのは一般的な事だと思って差し支えないだろう。
しかし蓋をあけてみれば、彼の演じるサイモンはギャンブル好きのDV野郎、おまけにストーカー気質でパイパン好きの変態だったわけで。
これが一番の驚きだったわけだけど、まあこうして書いていてもジェームズ・マカヴォイを「このクズ野郎!」と罵る気にならないムードを彼がまとっている、この事実こそがキャスティングの意図であったのだろうと確信する理由。だからこそ終盤がエリザベスの復讐譚になっているにも関わらず、サイモンの事がどうしても憎みきれない。自ずと我々の感情は不安定になる。
ヴァンサン・カッセルについても同様で、エリザベスが「昔の男が暴力的で」と言った時「それコイツの事なんじゃねーの」と思うのは割と正常な反応だと思う。しかし中盤から終盤にかけては、エリザベスに振舞わされているだけの可愛そうな人になっているし、オチにいたってはかなり良い人オーラまだ出しているし。マカヴォイほどではないが、これもイメージを利用したキャスティングが意図されているようにしか思えない。
鑑賞中に「これはあのパターンじゃないのか。あるいはこのパターンでは」と色々展開を予想していた訳だけど、そのひとつとしてフランクとサイモンは同一人物ではないのか?という想像したことを告白することに躊躇はない。でも、そういう人多いと思う。
ファイト・クラブ』的展開を頭に浮かべた人、結構いるはずだが、どうか。
ただそれを決定づける箇所もないし、むしろそうであると色々と成り立たない部分の方が多そうだ。
だから間違いであるとは思うが、ただラストのエリザベスの告白の場面で一回「サイモン」の名前を出すところがあった記憶があって、あそこは少し気になる部分ではある。
考えてみれば埠頭での出来事はエリザベスの記憶操作であるとして、誰の記憶操作だったのか?と。「はっ!…夢か」とプールで目覚めたのはフランクだが、今までその役割を担っていたのはサイモンで、そのサイモンの不在は「ちょっと待て。ここはどこだ?君は誰だ」という不安につながる。
また、逆に言えば埠頭での出来事が記憶操作であるということも疑わしいし、フランクに「何だ、夢か」と思わせたこと自体がエリザベスの操作だったのかもしれない。
あるいは赤いクーペに乗っていたのはやはりエリザベスで、殺された女などいなかったのかもしれない。
はたまた極端で馬鹿馬鹿しい想像をすれば、エリザベスの復讐譚は実は見せかけであって、全てはまるっきり嘘だったのかもしれず、フランクへの遠まわしのプロポーズだったという『ゲーム』的展開となる可能性だって否定はできない。
エリザベスによる催眠療法(記憶操作)がどこから始まって誰に対して行っているのかなんて誰にも証明できない以上、全ての出来事を疑う必要がある。

ということで考え始めればキリがなくて、たとえば指の絆創膏を手がかりにシーンを分析したり、構造を図式化したりすれば、もしかしたら見えてくるものがあるのかもしれないが、それはあまり意味ない事かもしれず。
ただ騙されたままでいるのが正しい態度のような気がする。
最後に劇場に静かに響いたノックする音を聞くと、そう思うしかないじゃないか。