心配はしていない。

さて東洋の赤いチームが久しぶりのAクラス、そして初めてのCS出場で今シーズンを終えたということは、例年秋になると今年もBクラスに終わったか、と諦観めいた心境になりつつも「さあ!開幕はまだか!!来年はやれる気がする!」というモードになっていた我々ファンにとっては、「もしや」という期待を抱かせてくれた事そして何より長くシーズンを楽しむことができたという点において喜ばしい話であり、一部の野球評論家を称する者たちによる「借金のあるチームが日本シリーズに出ることになったら云々」という発言は選手に対する冒涜とすら言える不快なものであったが、遠吠えだと思えばまたそれも心地よく、普段は黄色で覆い尽くされている兵庫の球場を赤く染めたことも含めて痛快ではあったが、結果としてそこがピークとなってしまったことはとても残念であり、更に「やっぱり格が違う」と痛感させられたチームが日本シリーズでは3勝4敗という対戦成績がまやかしであるかのように、その強さを見せぬまま弱いチームにしか見えない状態で終えてしまったことに寂しい気持ちになったのだが、しかし東北に日本一がもたされたことに必要以上に反動的でシニカルな態度を取る必要もないし、というよりもどちらが勝っても関係ないと言った方が正確かもしれないが、例えば闘将などといったイメージを撒き散らし旧時代的な振る舞いをする監督に対するアンチテーゼの気持ちを抱きながら試合を見ていたことも事実であり、それ故に絶対的エースの活躍について多少ウェットな演出が過ぎないかという否定の気持ちが沸いてくるのだが、たとえば彼が五色に彩られたアイドルグループのファンである事や彼を見守るパートナーの笑顔がそのグループの一員のそれと完全に一致しているという事がプラスの要素として働き、しかしそういうバイアスがかかっているという前提はそれほど意味を持たず、やはり彼の活躍には素直に「凄い」というしかなく、ついては彼と同期である我がチームのエースの心境や如何にという余計なノイズまで生まれる始末であるのだがそれはまた別の話で、彼の登板間隔や投球数について例えばメジャーリーグのスカウトたちが頭を抱えている、肩が壊れる、選手寿命が縮まったという「スポーツ科学」、とあえて鍵括弧尽きで表現するが、そういう立場からの非難あるいは憂慮が取沙汰される一方で、160球投げた次の日に魂のピッチング!自ら登板を志願!というスポ根上等的な方向からは賞賛をされているという事態について、私はそのどちらでもなく、かつ両方でもあるという卑怯なスタンスに立っていて、ひとつ思うのは春先に目にする地元びいきの解説者が「来年は先発4本柱が20勝して、80勝。もちろん優勝します」と言っているのとさほど違いのないシーズン無敗の24連勝ということが実際に起こってしまったことが癖モノであって、もし19勝3敗という成績であったなら、そもそも優勝していなかったという事は置いておくとして、また無論それでもここぞという場面での連投や緊急登板などはあったにせよ、ここまで彼にドラマ性を求める必要はなかったのではないか、チーム内にも観客にもメディアにもそれを求める作用は働かなかったのではないか、という仮説を立てているという点において、やはり自分の中では今回のドラマ性について多少なりとも違和感を抱いていることの証なのかもしれず、だからといって例えば通常であれば登板するであろうリリーフ陣の立場を慮ったわけでもなく、またスポーツがもたらすドラマというものは自然に発生するものであり演出の介在は不要であるという原理にこだわっているつもりもないのだが、しかし当の試合の前日に初めてのアフロアメリカン系メジャーリーガーを題材にした映画を観たことと無関係ではないように思えて、その映画の安っぽい演出に「そんなものは必要ないだろう」と強く感じた事で一層そういった方向へシフトしているのかもしれず、とは言いつつも浪花節的な感情について否定するつもりはなく、それどころか時にはそれに支配されることに心地よさを感じることは多々あることで、結局何が言いたいのかというと、大竹も石原も栗原も来年カープでよろしくね!

I have a bad feeling about this『42〜世界を変えた男〜』

どうにも最初から予感はしていた。
予告編から醸し出されている「良い映画」臭。そして何しろハリソン・フォードのやる気を感じるエピソード。

という事で
『42〜世界を変えた男』

いやジャッキー・ロビンソンは偉大だ。それはそれとして。
全般的にテンポも良くないし、今ひとつガツンとくるところがない。
何しろ野球のシーンに魅力がないのが厳しい。極端に言えば、作り手に野球に対する愛がないような気すらした。
感動的な場面には「感動的な音楽」、しんみりとした場面には「しんみりとした音楽」、ラストの盛り上がりには「ラストの盛り上がりにふさわしい音楽」が流れる。それらはソツがないといえばそうだけど、どちらかというと凡庸な印象しか与えなかった。
ウェインズ・ワールドのオスカー受賞シーンパロディにしか見えないというか。

相手チームの聞くに堪えないヤジ(というか完全なヘイトスピーチですな)*1にジッと堪えるところとか、無邪気に野球を観に来た子供が気がつけば罵声を浴びせてしまうとか、悪いところもないではなかったが、全体的にはピントもぼやけたぼんやりとした作品になってしまったように思う。
とにかく材料をあつめてパッと作ったインスタント感、とでも言う感じ。
ベビー・シッター遅刻のくだりとか老監督の登場とか、これはフラグ的に何か起こるのかな、と思えば特にそんなこともないし。
特に老監督は「ワシは何もせんよ」というスタンスでありながら、ここぞというところでビシッと決めてくれるのかと思ったのに特にそんな場面はなかったし。ホテル宿泊で揉めたところくらいか?活躍していたのは。
チームメイトとの壁が氷解していくところも、それぞれのキャラクターに感情移入できていないから今ひとつカタルシスがない。*2


何しろ、ハリソン・フォードがオーディションを受けてまでこの役を演じているのも良くない気がする。
もちろん悪くはない。よく演じていたと思う。
でも。
映画はあくまで仕事であって、与えられた(オファーのあった)仕事を淡々としかし誠実にこなしていく、という彼が「やる気」を出してしまったことで世界のバランスが崩れてしまったんじゃないかと思うわけです。
やはり「巻き込まれてしまって、何だか判らないけどここにいる」という風情で、困惑した表情で画面の中にたっていてもらわなければ困る。

*1:この役やっていアラン・テュディック。素晴らしい存在感。

*2:ずっとやる気のなさそうな実況していたアナが最後に笑顔になるところは良かった。

それがあなたの生きる道ならば。『R100』

北野武が「おいら、映画の事なんて判んねぇからよ」と言っていても素養として映画(やその他芸術)に触れて来たのは明らかであることと比べると、松本人志の場合は映画に関するリファレンスは圧倒的に少ない。
それを露悪的に自ら喧伝しているところもあったりして、そのたあたりは、もう少し素直に向きあった方がいいのかなと思う反面。
それこそが彼の彼たる証であるというなら仕方がない事とも思う。

という事で
R100

しかしそういったリファレンスの少なさをもって彼の作品を断罪するつもりはないし、そのことが表現活動の強みになることもあるだろう。
もちろん弱点にもなりうる。
今までのところ弱点の部分ばかりが強調されて批判されているような気がするし、中にはアンフェアな批判もあるように思う。
もちろん批判が出る事も納得できる。

その一方で、やはり他とは違う顔つきも持った作品であることも否定はできず、特に終盤の”CEO”の登場は快感をもたらすだけの力のある画面だった。少なくともその部分だけでも観る価値があったと言うことに躊躇はない。

ネタバレ、とうほどでもないし序盤で明かされる事だが、この作品は100歳の映画監督が撮った「R100」という劇中映画と、それを巡る関係者たちの様子という二重構造になっている。浅いといえば浅い。
試写を観た関係者たちが作品の出来にうなだれる、という自己言及のパートは、「逃げ」に見えるのは間違いないが、実はそこまでの意図はないと思うのだが甘いだろうか。
単なるボケに対するツッコミとして配置しているに過ぎないのではないか。そのボケがつまらんのじゃ!と言われればそれまでですけど。

勝手な想像になるが企画会議の席でのやりとりはこんな感じだったんじゃないか。

「ジジイが無理して作ってもうとるから、色々おかしなことになんねん」「発想が昭和なんやね。公衆電話。ハリマオみたいな格好したヒーロー」「頑張っとんねん。でも限界や。100歳やから」「100歳やからな」「ちょっと社会的なものも取り入れてしまう。現代日本の空気を切り取ったでー、みたいな」「欲が出て。褒められたい」「褒められたいねん。100歳やのに」

こんな感じで企画が進んでいったんではないか。
だから中盤から大森南朋渡部篤郎の演技が明らかに投げやりになっているのは、以下のような意図に基づいた演出プランであると思いたい。

「もう役者も途中から気づいとるんやな。感じとる。これ変やぞ、と」「変やぞ、この映画失敗や」「投げやり。巨匠の映画に出られると思って張り切っとったのにオモチャみたいな鉄砲持たされて」「顔にはエフェクトかけられるし」「失礼なジジイやで」「これ打ち上げ大変なことになるで」

そういう想像をしながら見るようにしていたので十分笑えた。そこまで慮って笑わなきゃならないのかは良くわからないけど。
いやでも元々そういう指向を持った笑いをやってきた人なので、その意味ではブレていない。

ただ寿司屋のシーンだけは意図を聞いてみたい。なぜビジュアルバムの劣化版のようなシーンを入れたのか。その点はどうにもしっくりとこない。

ということで色々と散々な言われようの今作だけど、そこまでヒドイとは思わないし、いやむしろ楽しめた方の部類。

次回作あたりホラー映画を撮ってみて欲しいのだけど、もう映画やめちゃうのかな。
それはとても残念な事だと思う。本当に。

 そんな眼で僕を見るな!『クロニクル』

どうも個人的な今年の顔はデイン・デハーンになるのかもという予感をしつつ。

という事で
『クロニクル』

正直、ただそれだけの理由で観に行ったようなもので、デイン・デハーンを愛でることができれば良いだろうという程度の期待感。
だったのだが。
劇場を出たあともジンワリと残る感情の静かな高まりは何処から来るものか。

鬱屈や抑圧を抱えた十代をとりまく日常を描いた導入部。
確かに晴れ晴れとした瑞々しさからは遠いものであるが、POVというスタイルによってそのリアルが補完されている。
その為に、その後の超常現象の映像の「不思議なリアルさ」が際立つ。
CG技術には慣れっこになっている我々にとっては、「うわー。どうやって撮ってるんだろう!」という驚きはもうすでに通り越している。
今更、そんなところに構っている場合ではなく。
そんなことよりも、まさにyoutubeで他人の生活を覗いているような映像で、ボール浮いたり身体が浮いたりする状態にシームレスに入り込めるスタイルに先ず感心した。
「うわ。空飛んでるよ」という驚きではなく、というか日常へ異常事態が入り込んだことにより異化効果のレベルは高い。

決して能天気に晴れわたっている訳ではないアンドリュー(デイン・デハーン)の生活は、マットおよびスティーンによって(正確には彼らが得て”しまった”能力によって)徐々に変化していく。
超能力学園Z的なスカートめくりや駐車場でのいたずらというアホな高校生的生活の楽しさは、能力の獲得・機能拡張とともに危ういバランスによる悲劇を予感させるフラグであったという点で、今となっては不幸な話であったのかもしれない。

パーティでの”挫折”は、マットやスティーヴにとっては青春のエピソード程度の取り扱い事項にしか過ぎない。
しかしアンドリューにとっては、「そんなことで僕のことを拒絶するのか。そもそも君は僕のこと好きじゃないのか」という赤毛の子に対する、というよりは世界に対する敵意へと繋がる切実な問題だったということなのだろうか。
アンドリューがマットに「僕の事好き?」という問いかけは、決して何気ないものではなくマットが思わず戸惑うほどの切実感がともなっていた。
能力をコントロールする術を(おそらくは)持っていたであろうマットやスティーヴではなく、アンドリューこそが抑えきれないほどのgreat powerを手にしてしまったことの悲劇。処世術を元々持ち合わせていないアンドリューが使いこなすことができるわけもない。
そのことの哀しさ。
文化祭で綱渡りやジャグリングで適度な人気を得る程度の使い方ができていれば、超能力学園Zのようなアホで楽しい人生を送れたかもしれないし、あるいは正義のヒーローになることもできただろう。
でもアンドリューにそれはできない。ル・サンチマンを抑えることなんてできない。
そしてそれは我々も同じことだとも感じた。

その点で、スーパーマンのアナザーサイドとでも言いたくなるような側面も持っていた。
というのは誤解だろうか。
能力を手にした(持っている)者が必ずしも大いなる責任を持ってその力を行使できるわけではない。
たいていは欲望の達成のために使うことになるだろうし、おそらくは欲望のエスカレーションは止められることはなく、スカートめくりでは終わらない。

何にせよ、現在「大人は判ってくれない」属性においてデイン・デハーンが抜け出ているのは言うまでもなく、彼のキャスティングでこの作品の勝ちは決まっていたと言えるだろう。
あの眼差しと時折魅せる笑顔の破壊力は素晴らしい。
加えて、マットやケイシー役の子もまた魅力的だった。特にマットは、ゴツゴツとした顔にどこか達観と知性を感じさせる半開きの眼が良い。その知性や達観こそが、アンドリューにまた疎外感を与える要因だったのかもしれないとも思う。

アンドリューが自分の生活を撮り始めた動機については、モヤモヤとしていたがこうして書いていると、なるほど世界への承認欲求の手段だったのかもしれないと思い始めた。
「僕のこと愛してくれるかな?」

マットがチベットへ置いてきたカメラは、やがて誰かに見つけられるだろうか。

大きくなったなあ、ボウズ。『ウォーム・ボディーズ』

特に原作の既読・未読にはこだわらないタイプだが、『アバウト・ア・ボーイ』については映画で描かれなかったニルヴァーナ、というかカート・コバーンを巡るエピソードが素晴らしいので、未読に人は是非。

という事で
ウォーム・ボディーズ

そんなニコラス・ホルト君もすっかり大人になって。そんな彼みたさに、という目的はほぼ充たされた。
猫背でヨタヨタとゾンビ歩きしている姿は魅力的だし、どこか動物的な瞳(とその眼差し)は役にあっていたとも思う。
設定やストーリーの細かいところについては、観ている時に色々と疑問に思ったりした部分もあったはずだがそんなことはどうでもいい。
序盤のゾンビ襲撃シーンでのテリーサ・パーマーは『アイ・アム・ナンバー4』で唯一といっていいくらいの輝きを魅せていたことを思い出させてくれた。カッコよさと可愛らしさもあってとても良かったと思う。とにかくR(ニコラス・ホルト)とジュリー(テリーサ・パーマー)が若々しさ(いや、片っぽは土気色しているけど)、それだけで良いのではないか。

コメディとシリアスのブレンド具合いは、『50/50』と比較するとバランスに欠けていたような気もするし、ラストについてはやや明るくスイート過ぎるような気もするが、それも許してしまおう。

R(や仲間達)が徐々に人間化していく過程は楽しいし、またエモーショナルでもある。
全体的に大きな驚きもなかったが、だからといってそれは退屈には繋がらず、終盤のバトルにおける「ベタ」な展開もライトではあるが楽しい。

夢の世界で「ここはお前のくる場所じゃない」と言われたときのRの孤独感いった件は、しかしちょっとしたスパイス程度に抑えられていて、それは結果としては良い方向に作用していたんだろう。
僕って何?」的な葛藤はほとんど(というか全く)描かれることなく、ライトなロミオとジュリエット型恋愛青春映画として成り立っているというところでしょうか。

メインキャスト二人を観ておくというだけでも、損はないとは思います。100分以内だし。
ちなみに個人的にはノーラ役の子は割と好きな顔でした。

偽装されたハッピーエンド 『エリジウム』

風呂なしアパートでクーラーもなく暑い日々を過ごしながら、高台の高級住宅街を恨めしそうに見つめていると『天国と地獄』の山崎努のような心境になったあの頃。

という事で
エリジウム

エリジウムの存在がどういう位置づけなのか。独立した国家なのか、単なるブルジョアの作り上げた楽園なのか。地球の政治はどうなってるのか。経済は。
とか。
そういった部分が多少なりとも気になったのは瑕疵というべきかもしれないが、逆にいえばそういう箇所があったということは作り込まれていたことの証と言えなくもない。
前半の地球パートから後半のエリジウムパートはリズムが変わって行くが、それがシームレスに感じるあたりは、やはり良く出来ているのだろう。
ただ『第9地区』ほどの興奮も驚きもなかったというのもまた事実。
以下ネタバレしながら。


ジョディー・フォスターの存在感は流石といってよく、「最後はいい人に」という着地点み見せかけながら、実際には諦観を帯びた瞳で迎える最期など、程よい距離感が良い。
ただちょっと楽していた感は否めない。

クルーガーのやさぐれ具合は、その小物感も含めて嫌いではないが、終盤の対決シーンでの唐突な「ジャパンテイスト」は正直、よくわからない。あの梅(桜じゃなかったよね)なんなんですかね。
プリゾンブレイクのあの人も、「おや。今回は結構出番あるな」と思ったら途中退場してしまった。ラスボスではないにせよ、中ボスにもなりきれなかったというところか。今ひとつ、ブレイクしないですね、この人も。

とか色々とありつつ。
やはりこの映画の肝はラストにある。
個人的に映画の中では死なない属性に分類しているマット・デイモンがその自己犠牲によってもたらした「人類みなエリジウム市民!」という結果は果たしてハッピーエンドなのか。
空から降り注ぐようにやってきた万能医療ロボットは、歓迎すべき幸福の知らせ、というよりは堕落と荒廃をもたらす禍々しい厄災と捉えた方がよさそうな気がする。
最大多数の最大幸福の究極とでも言うべき世界は本当に成立するものなのだろうか。
どうにもこうにも「その後の世界」は、うまく立ち行かないとしか思えない。
そしておろらくは意図的なハッピーエンドの偽装だと思えるこの結末をみれば、やはり一筋縄ではいかない作風なのだな、と納得してみたりする。
という事をボンヤリと考えながら劇場を出ると、仕事上のトラブルが待ち構えていて映画どころではなくなったという、バッドエンドを迎えた事は、この映画にとって不幸だったのかもしれない。

ミリ単位で向こう側へ連れて行かれる恐怖。『凶悪』

帰省ついてでに地元のミニシアターで観たわけだけど。

なんというか年老いた両親の姿を見た後だど、何ともいえない思いが募ったりもするわけで。

という事で
『凶悪』

ケレンのない画面が、かえって生々しさとなってホラー的恐怖を伴って向かってくる。
空き地や古びた家屋から溢れ出る、というか滲み出る負のオーラは、嫌な気持ちにさせる度合いがどんでもない。
老人たちをはじめ、キャストは素晴らしい。
吉村実子が可愛らしさは、その魅力的な振る舞いが一層哀しみをドライヴさせる。ジジ・ぶぅの駄目なジジイっぷりも良かったし、それ以外でも裁判官とか検察の人とか生々しさ満点の存在感。

冒頭から陰惨な場面が続くが、最も鬼畜なのは酒を無理矢理飲ませたり、スタンガンをびりびりやりながら「先生!やりすぎ!長い長いwww」のところ。ではなく。
小学生役の子が机に座っている部屋の隣で、母親とピエール瀧がセックスしているシーン。
もちろん壁に隔たれているものの、カットは割られておらずワンシーンで撮られていて、その現場の事を思うと、非常にいたたまれない気持ちになる。
本当に嫌になるくらいだけれども、それは池脇千鶴に言われるまでもなく我々も楽しんでいるわけで、それに対して「人間ってそういうもんだろう」というのは決して開き直りでもなく、むしろそういうものであることを踏まえて生きて行くしかないような気がしたりする。
結局、紙一重で踏みとどまっているだけな気がして、それがまた怖さを生むという連鎖。

それにしても。

ピエール瀧リリー・フランキーのツーショット画面の禍々しさがスクリーンに大写しになっている事実は、それが高いレベルであることを含めて、日本映画の今にとって幸せなことなのか不幸なことなのか。
どちらなんでしょうね。